存在が溺れる

インターネットの粉塵 書いたり消したり

希死念慮と死恐怖症は実質同じという話

少し前に数年来のフォロワーとタイトル通りの会話をして、なんか良いなと思ったのでここに書いてみる。

私はできるだけ早く死にたいという気持ちがあって、フォロワーは死恐怖症だった。
デスメタルが好きなのに。

死恐怖症という話題のトピックをTwitterかどこかで見て、「死恐怖症の人と分かり合えない」とツイートしたら「死ぬのが怖い」と返信したフォロワー。純粋に何故なのか気になったので聞いてみた。


私「苦しみながら死ぬのが怖い?死んだ後が怖い?」
フォロワー『両方だけど、どちらかといえば後者。自分の意識がどこでどうなるのか分からないのが怖い。』

私「無になることへの恐怖か…」
フォロワー『苦しむのは多分死ぬ時になったら覚悟できるかもしれないけど、その後のことは誰にも全く分からない。生まれる前は意識がなくて、そのずっと前も時間は常に動いていて、死んだ後も時間は動き続ける。意識はいつどこで芽生えていつどこで無くなるのか分からないのも怖い。』

単純な話だけど深い〜!とても哲学を感じる。

本質としては双方共に、時間だけが変わらずに過ぎていくことへの恐怖だと思った。時間が過ぎることへの恐怖から無になりたいと思うか、無になることを怖がるか、それだけの違い。
終わりがないことが一番怖い。

私の死にたい気持ちも、元を辿れば「時間が過ぎることで衰えていくこと」への嫌悪感から生まれていると思う。老齢になったこともないのに。実際若い頃と変わらず楽しんでいる幸せそうなご老人も沢山いるのに。

文字にしてみて、自分が思っている以上に自分は若さ至上主義だなと実感して若干引いている。若さを最大限に活かしたことなんて何もないのに。同世代がワイワイ楽しんでいる頃に鬱病だったのに。
平均80年強の人生において貴重な若い時間を虚無で過ごしている、そんな今が一番無駄じゃん、と思ってまた死にたくなる。

今月で3年目を迎えた私のiPhoneは、フル充電で新品時の82%になってしまった。私が想像している"老い"はまさにこれと一緒だなと思考のパターンを当てはめてしまう。

そんな人生。


フォロワー、会話を勝手に記事にしてごめんな!
いい話が聞けたよ。